天文台への途
小学校時代
小学校は谷山小学校です。
昭和33年(1958年)に入学しました。
全学年3000人という当時日本一のマンモス校でした。
小学生時代、天体に漠然と興味はありましたが模型工作のほうが好きでした。
得意なものは竹ヒゴで作るゴム動力の飛行機です。
学校では模型クラブの会長をしたり素朴で楽しい時代でした。
谷山小学校が変わっているのは、地元にラサール中学校、高校と日本有数の有名進学校があるため、何と6年生になるとラサール中受験のための補習がありました。
特別に選ばれた少数の子供たちが朝早く、あるいは夜に学校で補習を受けるわけです。
1960年代初頭のことですから。教室には冬でも暖房はありません。
裸電球を点けた教室で受験生は頑張っておりました。
今思えば本当に教育熱心な小学校でした。
私も少しは成績が良かったので選ばれたのですが、脱腸の手術を受けたり体の不調があり、補習を続けられず、ラサール受験は断念して公立の谷山中学校に進みました。
しかし今になって思うのは、谷山中学校に進んだおかげで当時の同窓生たちが仕事を紹介してくれます。
何しろ全国一の学生数のまま中学に上がるわけですから、その恩恵たるや相当です。
同窓生の皆に感謝です。
少し誇らしい変わった体験1
小学一年のときから図書室に行くのが楽しみでした。
図書室担当は色白で綺麗な女性のK先生です。
行き帰りに黒のベレー帽をかぶっているので目立ちました。
上級生には先生に向かってはやす子までおりました。
K先生は私のことを他の誰より本を読んでいると認めてくださったのでしょう、特別にかわいがられているという感じがありました。
その代わり、本の整理とか他の生徒がしないことまで手伝っていました。
もう時効ですから告白すると、卒業の挨拶に行ったら、内緒よと言ってハンカチをもらったのです。
本当に嬉しかったです。
私が入学したときに20歳前半だとしたら今頃は80歳。
どうしていらっしゃるか、時々思い出します。
少し誇らしい変わった体験2
昭和34年(1959年)小学2年のときです。
クラスにO君という大柄な子がいました。
申し訳ないけれどいつも薄汚く、成績も良くありません。
今の人には想像できないでしょうが、住まいは国鉄線路沿いの細長い土地です。そこには似たような家が数軒ありました。
家といっても廃材を寄せ集めたような小さな小屋です。
今考えれば土地も国有地なわけです。
親の仕事は、そのころ俗に言う地金屋、廃品回収業です。
そのO君がある日私に小さな箱をくれました。
新品の両刃カミソリの刃が10枚入った箱です。
これが何だか分かる人は昭和20年代より前の生まれの人でしょう。
廃品回収業者が受け取った廃品の価値によって、代わりにくれる商品の一つです
鉄、銅、アルミなど素材の重さと価値により、お金だったり新品の鍋や食器などと交換してくれるものでした。
それまではカミソリといえば片刃でした。
交換式の両刃カミソリがその頃、出てきたので、大人たちはぼつぼつ使い始めたわけです。
なぜ私にくれるのか、O君に聞いてみました。
O君は『庭田だけが僕を差別しないで普通に付き合ってくれたから』というような意味のことをどもりながら言いました。
そのとき以来O君と家族はいなくなりました。
あとで分かったことですが、たぶん北朝鮮に渡ったのだと思います。
この思い出を書くのは、何を言いたいかというと私は人を差別しない子でした。とにかく誰とでも話をする子でした。
60歳を過ぎた現在でも、当時の同級生がそのように言ってくれるのです。
ですから地元での仕事の紹介が多いのだと少し私の自慢です。