天文台への途
中学校時代
小学校時代、漠然とした興味の対象だった宇宙も、6年生になって図書室の天文関係の本をすべて読破したことにより、模型工作と並んで大きな趣味になりつつありました。
さてさて、中学生です。
出身校の谷山中学校は当時、全生徒が文科系か体育系の部活動をしなければならない決まりでした。
そこで私は好きな理科部に入ったのです。
1年生の頃は化学の実験や植物の生育の観察など、数名の部員で行っておりました。
2年生になり、部活のほかに一人で本格的に天体観測を始めたのです。
今は天文趣味を楽しむ人も増え、関係書籍も多数発行されています。
しかしその頃は誠にマイナーな趣味でした。
天体望遠鏡も高級なものは買えませんので、山形屋デパートで買ったプリンス光学の工作キットでした。その頃の天文少年たちのほとんどが、お世話になった製品です。私が買ったのは最上位の口径8センチ、焦点距離120センチの屈折式です。標準ではシングルレンズですので、お小遣いをためてアクロマートレンズに交換するという、これまた順当な経歴です。
理科部担当のK先生は、博士号を持つ厳格な先生でしたが、専門は確か化学でした。
ある日の放課後、理科室で私が一人で実験の準備をしていたら、副担当のT先生が私に、『庭田君は天文に興味があるみたいだが、この雑誌を知っているかね』と、その頃創刊されたばかりの、天文ガイドという月刊誌を貸してくださいました。
一晩だけ借りて翌日返しに行ったら、T先生が庭田君が欲しければ、学校に本を届けてくれる本屋に毎月届けさせるがどうか、と言ってくださったのです。
それから、毎月お金を持って理科室に天文ガイドを受け取りに行くようになりました。ほのぼのとした時代でした。
天文年鑑という年一回発行される本も、T先生の勧めで購入しました。
私が買い始めた天文ガイドは、創刊して半年ほど後からだったと思います。
中学3年になり夏休みの宿題として、ペルセウス流星群の観測記録を提出したところ県で入賞して表彰状をもらいました。
理科室の外の廊下に張ってあったので、卒業するときもらいに行ったら、このままにしておきたいのであげられないと言われました。私も名誉なことなので記念に残してきました。数年後に行ったらなくなっていましたが。
楽しい中学時代も終わりに近づき高校受験です。
高校時代
鶴丸高校に合格しましたが、中学時代、天体観測に明け暮れ、家ではほとんど受験勉強することがありませんでした。
母に後で聞いた話ですが、鶴丸高校に合格したことに、びっくりしたと言っていました。
お祝いに天体望遠鏡を買ってもらえることになり、東京まで一人で出かけました。幸い兄達が川崎にいたものですから、両親も安心して送り出してくれました。
とは言え、急なことで時期的にも望む切符が買えません。
行きは日豊線まわりの急行・高千穂。座ったまま31時間もかかりました。
最近、この原稿を書くときにWikipediaで調べたら、日本最長距離を走る列車とあります。
また東京駅、大阪駅から当時の西鹿児島駅へは到達時分の短い鹿児島本線経由が一般的であったため、同列車を全区間乗り通す客はそれほどいなかったといわれている。とあります。
私は『それほどいなかった全区間乗り通す客』の一人だったわけですね。
本当に疲れました。
その上、坊主頭に学生帽の一人旅なので、何度も家出少年と怪しまれて閉口しました。
帰りは特急はやぶさ、寝台車で快適でした。それでも約25時間かかりましたが。
さて、やっとのことで東京に到着です。
まずは兄に付き添ってもらって、東大赤門近くのダウエル・成東商会に行きました。
天文ガイド誌に大きく広告を出していたので、どのような会社かと想像しましたが、行って見たら畳を敷いた部屋に社長がいて、対応してくれたのにはびっくりでした。
座っている座布団の回りには部品が置いてありました。
ほかに名前は忘れましたが、新宿のデパートの天体望遠鏡売り場にも行きました。
屈折望遠鏡を買うと決めていましたので、そのつもりで見て回りましたが、売り場にある一番大きな屈折はケンコーの製品でした。
デザインもスペックも、ビクセンジェミニF型とまったく同じでした。
考えるに製造は同じ工場だったのでしょう。今風に言えばOEMですね。
結局、鹿児島を出る前から天文ガイドで目を付けて第一候補としていた光友社、今のビクセンのジェミニF型にすることにしました。
新宿区原町にある会社まで行って直接買うことにしようということで、兄と二人で行きましたが、『えっ』と言うような普通の民家みたいな木造の建物でした。これには後日談がありますが、それは後ほど。
薄暗い2階の応接室に通されて、社長とおぼしき人が対応してくれました。
屈折式としては最大口径の製品である、ビクセンジェミニF型を注文しました。
最高の気分でした。
当時、屈折望遠鏡は60ミリが主流で80ミリクラスは高級な部類でした。
60ミリから下の機種は大量に製造していたので、天文雑誌に広告が出ていましたが、ジェミニF型はそんなに売れなかったのでしょう。広告を見たことはありませんでした。
注文したのは3月ですが、それから製作するとのことで5月の連休に届きました。今とは大違いです。
その後、光友社はビクセンと社名を変え、今では世界的なメーカーになりました。私のメーカーを見る目は子供のときから確かだったのですね。
ただ不思議なのは、ビクセンのホームページなど検索してもこのジェミニF型は出てきません。
先日、実家の父の遺品を整理していたら、たった一枚写真がありました。
(1970年1月。高校3年の卒業前なので坊主頭の髪が伸び始めています)
鶴丸高校時代はもちろん天体がやりたくて地学部に入りました。
ところが担当のN先生は天体よりは地質学が専門でした。
ときどき部員で化石探しに行ったりはしていましたが、天体観測は私一人で細々とやっておりました。
ところが、ある日先生に呼ばれました。
次の地学の授業は天体のところなので、君がしてみてくれと言われました。
教壇に立ち2回ほど地学の授業を受け持ちました。
ちょっとした自慢です。
今みたいに天文愛好家はいなかったどころか、珍しかった時代でした。
他の鶴丸高校生と違い、受験勉強もたいしてしないで星を眺めている庭田少年も大学進学の時期に差し掛かります。
大学時代からその後
さて大学受験です。
私の受験の1年前、学生運動が激しくなって、なんと東大の試験が行われませんでした。
歴史上、前代未聞です。
今思えば、その頃の世の中は政治をはじめ、何もかもめちゃくちゃな時代でした。
そのような中での大学受験に際し、私は割と合理的な考えの持ち主ですので、とにかく浪人だけは避けたいと思っていました。
また、東京に出てみたいと考えておりましたので、1発で受かる大学ということで早稲田大学に進んだのです。
1年前に東大の入学試験が無かったせいで、1年先輩の学生はじめ私のクラスにも、東大を落ちたけれども優秀な学生がゴロゴロいました。
さすがに皆、卒業したら結構なところに就職して行きました。
入学して間もないある日、授業が終わって違う道を通ってみようとブラブラ歩いていたら、見たような建物を発見しました。
何とビクセン。あの光友社本社でした。まだ同じ姿でありました。
友達も一緒でしたので寄りませんでしたが、大学のすぐ近くだったのでびっくりしました。
先にも書いたように大学時代は学生運動が盛んな頃で、休講になる授業も多くあまり良い思い出はありません。
また夏休み、春休みなど長い休みがあるので、鹿児島に帰って父の事務所の手伝いをしていました。
同時に南十字天文同好会を個人で立ち上げました。
天文ガイド誌に載せたら3名の高校生が来ましたが、数年で自然消滅です。
時は過ぎて数十年を一気に飛ばします。
あの後結婚、父の事務所の手伝い、子が生まれ、両親の介護、両親の葬儀、長男の結婚、次男の大学卒業。
まことに忙しい人生でした。
天文台を持ちたいと思った、あれから40年、天文を志した中学時代からすれば50年の時が流れました。
『時を待つ』とか『時が来た』という言葉があります。
やっとと言うか、まさに今なのです。
『地上の星を花と言い、天上の花を星と言う』。
古来、文学者、詩人、哲学者が何人この言葉をつぶやいたことでしょう。
まことに簡潔な美しいものの代表と思います。
研究所の庭で花を育て、鳥の声を聞き、星を見る。
ここには人の身分や肩書き、金銭の価値など関係ありません。
あるのは花や鳥の誕生からそれらの死。
自然の摂理による生と死です。
私は大学在学中の20歳のときから父を手伝い、大量の仕事に気の休まることがありませんでした。
今でも時期によっては多忙な生活を送っておりますが、少し時間があれば、研究所の庭で花を育て、野鳥に餌をやり、星を見ています。
個人的には、人生を楽しんでいます。
やっとです。
2015年6月29日 63歳